共働学舎新得農場 代表 宮嶋望の発言と実践

宮嶋 望の発言

「12という数字から」

AIの時代に、人間の定義が揺らいでいく

2017年の秋にフランスの空港で脳血栓を起こして倒れてしまったことはここで報告しました(http://nozomu-miyajima.net/?page_id=459)。リハビリを続けながら日常生活をおくり、以前のペースとはいきませんが自分なりに仕事をこなしているのが近況です。海外は厳しいですが、月に一度程度は東京などにも出かけています。

僕はいま、自分のからだのこともありますが、共働学舎新得農場にとって、そして日本の社会全体を見ても、いろいろな意味で転機が訪れているのではないか、と感じています。それは大づかみで言うと、「ケアが必要な人」と「ふつうの人」の境目が少しずつ揺らいだりゆるんできているのではないか、ということ。このことはあとで掘り下げてみます。

僕たちがここ新得に入植したのは1978年。1989年に、フランスでチーズのAOC(原産地呼称統制)の仕組みを立ち上げたジャン・ユベールさんと出会い、1990年からは十勝の仲間たちと「ナチュラルチーズ・サミットin十勝」というイベントを毎年開くことになります(2005年まで)。そして金策に奔走していまの工房を建て、1992年の早春から本格的にナチュラルチーズづくりをはじめました。ユベールさんやフランスの技術者のアドバイスを受けながら、98年にはラクレットが、「第1回オールジャパン・ナチュラルチーズコンテスト」でグランプリをいただきました。そして2004年、スイスで開かれた「山のチーズオリンピック」で「さくら」が最高賞を獲得しました。この「さくら」は、2008年の「北海道洞爺湖サミット」では各国首脳にふるまわれた道産チーズの一角を担いました。共働学舎の組織としては、それに先駆けて2006年にNPOの法人格を取得しています。
ここまでの道筋は、もちろん順風満帆だったわけではありません。僕は心臓発作で何度も倒れましたし、作りはじめたチーズが、「オールジャパン・ナチュラルチーズコンテスト」で1等賞を取るまで、6年も全然売れなかったことも苦い思い出です。
今年は北海道洞爺湖サミットから12年。干支がひとまわりしました。このことも転機を考える糸口になっています。

考えてみると12という数字は、不思議です。
これはまず暦をつかさどる数字ですね。月が地球を1年間にほぼ12回まわることから来ています。時計の文字盤が12に分割されたり、1分の60秒、1時間の60分という数字は、12の5倍になります。また聖書には12使徒が登場しますし、1ダースは12個。西洋音楽の基本は、1オクターブを12分割した12平均律でできている。日本の着物にも十二単(ひとえ)がありますし、十二支を考えても、この数字が重要であることは古今東西の文明に共通しています(太陽暦と太陰暦のちがいも興味深いテーマですが、ここではふれません)。

数字でいえば、同じく7も不思議です。
一週間は7日で、七不思議や七草という言い方もある。ピアノの鍵盤は88あって、これは7オクターブ(これ以上拡張しても人間の可聴域を超えてしまうので意味がありません)。民族の文化によっても少し異なりますが、日本では虹を七色に見ます。これは私たちが太陽光線(可視光線)を7色に分解して意識するからです。それぞれの色(光)は波長の短い方から順番に、紫、青、藍色、緑、黄、だいだい、赤となり、そして太陽光が一日(日中)を通して変化して見えるのも、夜明け前の東雲の光(紫)から日没の赤い夕陽まで、この順番で7つの色に分けることができます。
パリの空港で倒れて、家族の支えでなんとか帰国して帯広の病院に入院していたとき、僕は窓の外や天井をながめて、植物のことをずっと考えていました。そして、木々の葉の作りや向きは、一日を通して移り変わっていくこうした光の変化を、効率良く受けとめて、共鳴しあいながら光合成をしてでんぷんを作っていくためなのだ、と納得しました。そこから、樹木には1枚たりともムダな葉はないんだ、と考えることもできました。
(日本では8という数字も意味深い数字です。八百万の神とか、菊のご紋が8の倍数である16花弁であるように)

「鉄とコンクリートの文明」が必要とする乳製品

さて、太古から人間が意識していた、森羅万象を7とか12という数字を駆使してスパッと理解していくことは、現在の文明の胎動期、鉄が発明されてそれを使う人々がそれまでの文明を亡ぼしていった歴史の根底にあった考え方ではないでしょうか。自然は7という数字で説明できるものでできていて、それを12という数字(時間)が制御していく、と見ることができるかもしれません。しかしこうした数字によって世界を認識していくことはやがて、複雑きわまりない自然の営みの現場から人間を遠ざけていきました(けれどもそれは、啓蒙とも言われ、人間の英知の成果ともなりました)。
ちがう文脈でいえば、近代の世界史を見るとアフリカや中東の国境線は、自然の地形や水系を無視して、列強国がスパッと直線で勝手に引いてしまったものです。彼らは複雑な民族・部族構成をしたたかに利用して、都合の良い統治の仕組みをその国の内部に作り込みました。そのことが現在まで、たくさんの人々に重荷を負わせています。

世界は太陽を中心にした宇宙の運動によって機械的に制御されていると考える人間は、その仕組みを必死に探求してきましたが、もちろん、人間に森羅万象のすべてを理解することはできません。近代の思想は産業革命をもたらし、世界を鉄とコンクリートで満たしていきました。コンピュータやインターネットもその産物です。都市をつくる鉄とコンクリートの世界は人間にとても大きな恩恵をもたらしました。しかし一面で、人間がもっているはずの生命力や免疫力を弱めていったことも事実でしょう。
例えば大腸菌などの(人間にとっての)有害細菌は鉄と相性が良いことが知られています。ヨーロッパの人々にはそのことが直感的にわかっていたので、生命力を高めることができる乳製品を、太古から今日まで食べつづけているわけです。「鉄とコンクリート」に対応していくために、人間のからだは「乳製品」を必要としていたし、ヨーロッパや中東の人々はそのことを知っていた。私はそう考えています(製鉄は4千数百年前のヒッタイト帝国で発明されましたが、乳製品の製造も同時代にさかのぼれます)。今日の科学は、チーズなどに含まれる例えばラクトフェリンという物質が、人の抗菌力を高めることを明らかにしています。かつてヨーロッパを何度も襲ったペストの厄災は、製鉄の厳しい仕事に従事しながら、貧しくてチーズを食べることができなかった人々を中心に広まったとも言われています。

「無用の人間」が増えていく?

ここで、最初に言った「時代の転機」のことにもどります。
鉄とコンクリートの文明、別の言い方をすれば機械や情報が人やモノを徹底的にむだなく動かしていくことをめざす社会は、もはや曲がり角にある—。そうした考えはいろいろな立場の人たちが発言しています。AI(人工知能)を筆頭にした近年の科学技術の進化によって、その流れは新たな次元に入ってきているのではないでしょうか。

AIの進化によって、農業や酪農をはじめとして、人間の仕事はどんどん機械に置き換えられていく。その大きな潮流はもはや変わらないでしょう。問題はそのスピードと、程度、度合いにあります。
酪農の現場に低コストで自動搾乳のシステムが入ってきても、そちらを選ばない人たちが半分くらいいるんじゃないか—。先日そんな話を、農協連合会で幹部を務めていた方としました。その理由は、端的に言って「私たちが人間だから」です。

社会は人間が人間のために動かします。いくらAIが進んでも、社会から人間がいなくなってしまうわけではありません。
また、どの食べ物がおいしいのか、生産性や安全性のベースにあるその価値は機械では決められません。人間に喜びをもたらす味、あるいは危険をもたら味の定義は、単純に数値化できるものではなく、機械が一方的に決められるものでもありません。かつてフランスでジャン・ユベールさんが、固有の土地に根ざしたAOC(原産地呼称統制)チーズの仕組みを作るために、規模や効率や均一なスペックを尊重するばかりのアメリカ流のモノづくりと戦った争点は、まさにそこにありました。

このことを考えていくと、ひとつの局面に思い当たります。
つまりAIによる機械化が進んで人間が要らなくなることは、図らずも、結果として「無用の人間」をたくさん生み出します。これまで五体満足で心身が健康な人たちの中には、心身に障害のある人たちを区別(差別)して排除しようとする人たちもいました(極端な例が、2016年に相模原市の障害者施設で起きた恐ろしい殺人事件でした)。しかしこれからはそういう人たちも、否応なく「無用の人間」になってしまうかもしれない。そのとき彼らはどうふるまうのでしょう。
社会で尊重される人間とは、「役に立つ人間」、「仕事ができる人間」、「社会性のある人間」であったはずなのに、その中からも否応なく「無用の人間」というレッテルを貼られてしまう人間がたくさん出てくるのです。そこで人は、人間の生きる意味や価値を、あらためて考えることを迫られるのではないでしょうか。

役に立つ立たないの問題ではなく、どんな人も、まず生きていること自体に価値がある—。現在の私を含め、心身に重荷を負っている人たちが40年以上暮らしてきた新得共働学舎では、そんな精神がすべての営みの基盤にあります。
冒頭で僕が、近年は「ケアが必要な人」と「ふつうの人」の境目が揺らいできたと感じる、と言ったのはこの意味です。それはまた、大病をして「弱い人」になった自分の中で、より強く意識するようになったことでもあります。

新しい機械を次から次へと作り出す時代ではなく、いまあるものを大切に使い続けたり、ゴミや環境の問題を考えれば、人間の営みが作り出すものの全体をこまかく分解して、自然の持続的なサイクルに無理なくゆっくりと戻していくことを考えなければなりません。そこでは、チーズづくりに代表される、人間と微生物との関係をもっと深く探求していく必要もあるでしょう。「発酵」の世界はこれから、人間と自然環境のあいだにあるゆっくりと時間が刻まれる特別な領域として、「食」の枠組を超えた意味を持ってくるのではないかと思います。
内外の不和や戦争、温暖化や環境や食をめぐるさまざまな問題など、文明の曲がり角を意識せざるをえない現在の社会には、次の時代へのヒントが必要です。その糸口が、こうしたことを考えることにあるのではないか、と思うのです。

2月の牛舎

「2020.03.11 テキスト編集/谷口雅春(ライター)」

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INDEX

宮嶋 望の発言

12という数字から

大病から生還して

土地に根ざしたものづくりの新展開

2017年の春に

真木共働学舎の取り組み

映画『アラヤシキの住人たち』に寄せて

「モンデュアル・デュ・フロマージュ2015」に参加して

「札幌豊平教会」建設55周年記念講演会から

「石狩家畜人工授精師協会第64回定期総会」での講演から

「2015年3月の宮嶋望セミナー」から

イタリアで考えたこと

共働学舎新得農場の成り立ち

レポート