宮嶋 望の発言
「土地に根ざしたものづくりの新展開」
EPAやGIの意味を、大地から考えたい
去る7月(2018年)、日本と欧州連合(EU)のあいだで経済連携協定(EPA)が結ばれ、来年3月末までに発効する見通しとなりました。関税障壁をなくして経済取引の円滑化をめざすこの協定で、日本で恩恵を受けるのは、まず自動産業。ヨーロッパへ輸出される際の日本車の関税がやがて撤廃されます。逆にヨーロッパ側のメリットとしては、日本へのナチュラルチーズの輸出にかけられていた30%近い関税が、16年かけてゼロになります。チーズ好きの皆さんにとっては良いニュースですが、輸入チーズのシェアが今後確実に増えていくわけですから、日本の生産者にとっては脅威です。フランスでは、日本への輸出をじゃんじゃん増やし、さらに日本のロジスティックスを使って香港やシンガポールなどへ高級チーズをきめ細かく売ろうとしています。こうしたことは皆さんも報道などでご存知だと思います。しかし僕はこれを機会に、この流れをもっと根源的なところから考えてみたいのです。
そもそもチーズは、ヨーロッパでどのように生まれたものでしょう。それは、そのままでは腐ってしまう牛の乳を保存するものとして生まれたはずです。太古のあるとき、しぼっておいた牛乳とその土地の微生物が偶然好条件で交わって、乳酸発酵が進んでかたまりになった。なんだろう、と思って試しに食べてみると、これがおいしい。牛乳はもちろん無殺菌で、良い牛乳に良い状態で発酵が進むと、腐敗を進める雑菌の入り込む余地はありません(現代の大工場のように、ミルクをポンプで吸い上げてタンクローリーで運ぶようなことをすると、雑菌が増えるのでチーズには殺菌工程が欠かせません)。
現代のチーズ作りでは発酵をうながすスターターを使いますが、はじめはそんなものはありません。牛の乳をしぼると、乳頭の先にはかならず少し乳が残ります。そこに、牛の体表にいるその土地の微生物がつきます。良い菌は雑菌を駆逐します。それが、乳酸発酵をうながすスターターになりました。
やがて土地ごとに方法論が洗練されていって、チーズという食べ物になった。チーズはそうして千年以上前から、人々にとって大切な保存食品になったのです。いまでもフランスやイタリアやスイスで山のチーズを作る人々は、搾乳のとき前搾りをしません。乳頭についている良い微生物を活かすためです。
ワインも同じです。ブドウを常温のままおいしく保存する方法のひとつとして、古代ヨーロッパの人々は発酵の仕組みに気がついた。
フランスのパスツール(1822〜1895)が加熱殺菌の方法を考案したのは19世紀半ばですが、土地に生きる農民たちはパスツールにはるかに先立つ昔から、微生物の力をたくみに使うだけでおいしくて価値のある保存食品を作りだしてきたのです。でもおそらく、失敗もたくさんあったでしょう。食あたりで命を落とす人もいたに違いありません。
これは腐っている。これは良い具合に発酵した—。危険と安全のちがいを見分けるのは、現代のような顕微鏡を使った細菌検査ではなく、往時はふつうの人の味覚です。人間は自らの味覚によって危険な食べ物を避けることができました。この土地のミルクやブドウがうまい具合に発酵した場合にはこんな風味になる、という知識が代々受け継がれていきました。これがその土地ならでは風土と微生物に根ざした味わい、テロワールという文化の本質です。テロワールをめぐる情報は、ワイン愛好家の知識や教養のように思われがちですが、その土地の風土と人々の営みの長い関わりの上で磨かれてきた、生きることや人生を楽しむための大切な知恵だったのです。
さてこうして土地の個性から生まれる質の高い産品を知的財産として不当な競争などから守る制度が、フランスであればAOC、日本では2015年から登録がはじまったGI(Geographical Indications・地理的表示保護制度)です。AOCの基準は日本のGIよりもかなり厳しいものですが、ともあれ日本でも、規模と効率と売上を追求するばかりでなく、土地に根ざした固有の食文化を守って育み、それを地域経済の活力にしていこうという考え方が尊重されるようになりました。
十勝にある6つのチーズ工房では数年前からGIの登録をめざして取り組みを進めてきましたが、僕が倒れてしまったこともあってやや足踏み状態でした。現在は「十勝品質の会」を申請者にして、「十勝ラクレット」の申請手続きを進めています。GIは現在、夕張メロンや十勝川西長イモ(共に北海道)をはじめとして全国で60以上の登録がありますが、チーズの分野では「十勝ラクレット」が最初の登録になると思います。
EUとの経済連携協定(EPA)によってヨーロッパのナチュラルチーズの輸入が増えていくことと、日本のGIが意味するのは、端的に言って「もうヨーロッパの真似事はできないぞ」、ということ。この流れは、「自分が暮らす土地の味を、高いレベルでしっかり確立させよう」、という気運を起こさせます。だからこれは日本のナチュラルチーズにとって、追い風になりえる環境です。このサイトでふれてきたことですが、もともと日本は世界に冠たる多様な発酵文化を誇る国。ヨーロッパに比べてミネラル分が少ない日本の軟水は、微生物の多様で複雑な活動に、ヨーロッパよりも向いているのです(http://nozomu-miyajima.net/?page_id=270)。僕たちは単なる真似ではなく、世界のどこに出しても恥ずかしくない、日本ならではのおいしいチーズを自信をもって作ることができます。
ヨーロッパのチーズ工房で、国際ルールを設定するためにアメリカのHACCP(ハサップ)を取り入れました。そこで従来使っていた木の熟成板を止めたところ、元の風味が出なくなってしまった、という話があります。そこは結局、木の板に戻した上でHACCPを徹底して行っています。そのときのスローガンは、「復権させよう、土地の味!」。よその真似ではないおいしくて安全なチーズを作るとしたら、輸入飼料に頼らずにその土地の草を食(は)む牛と、その土地が長い時間をかけて育んできた微生物たちの力を借りるしかありません。一方的な殺菌ではなく、太古から世界中で行われてきたように、人間にとって良い菌に悪い菌を押さえ込んでもらうのです。そのためには、土地のことをもっと知って、土地に学ばなければなりません。そして人間の心身もまた、草や牛や微生物をはじめとした、暮らす土地の生きものたちの複雑で大きなつながりの中にいれば、無理なく健やかでいられます。
僕たちはこれまで、北海道農業研究センター・芽室研究拠点の池田成志上級研究員たちが進める、十勝の地付きの微生物の活用研究に協力してきました。センターと共に、地付きの発酵微生物による本格的なチーズづくりをめざしていますが、この針路もしだいに固まってきました。一部の工房単位では非加熱の生乳と自生の乳酸菌でのチーズづくりは始まっていますが、これをエリアの産業単位で実現させていきたい。もう少しで目途は見えそうです。
EPAの動向もあり、国や北海道の政策も、方向としてはいま言ったことの方に舵を切っています。規模と効率を追求するグローバルなモノづくりではなく、その土地が、長い歴史の上に固有にもっている環境をリソースにした、質の高いモノづくり—。僕たちがずっとめざしてきた方向に、いよいよ国も顔を向けはじめたのです。とても感慨深いことです。
「2018.08.06 テキスト編集/谷口雅春(ライター)」