宮嶋 望の発言
「大病から生還して」
どんな人でも、生きること自体に意味がある
このサイトの更新がしばらく滞ってしまいました。そのことについてお話しします。
実は昨年10月、フランスの空港で意識を失ってしまいました。その場で救急搬送、入院。帰国して療養・リハビリと、それまでとはまったくちがう日々が続いたのでした。さいわい現在は、以前のようにはいかないものの、日常生活と、共働学舎やナチュラルチーズに関わる仕事はそれなりにこなせるまでになっています。
フランスへは、ここで何度もふれているジャン・ユベールさん(フランスチーズのAOCのリーダーを長く務めた)に会いに行きました。直前まで仕事に忙殺されていたひとり旅で、機中では疲労困憊状態。ワインを少し飲んで、ほとんど寝てしまっていました。13時間かけてようやく早朝のパリ・シャルル・ド・ゴール空港に着陸して、立ち上がって収納棚から荷物を取り出したとき、意識がプツン、と飛びました。そこからしばらく記憶がありません。意識が戻ったとき、フランス語と日本語で「大丈夫ですか?」と呼びかけられながら、ふしぎなことに自分の頭を上から見ている自分がいたような気がしました。脳血栓でした。
すぐ適切な処置をしていただいて、専門の病院に担ぎ込まれました。血栓を溶かす強い薬を注射されたようでした。意識が回復してもそのときは声も出ず手足も動かず、自分はどっちの世界(あの世とこの世)にいるのかな、と思いました。
容態が落ち着いてから、新得から三男が来てくれて、ふたりで帰国することができました。ひとりではさすがに帰ることはできなかったでしょう。帯広空港からそのまま帯広厚生病院に入院しました。ちょうど旧知の先生が外科のトップに赴任していたことも心強かった。どうしてこのようなことになったのか。医学の面から仕事や食生活のことまで、いろいろなアドバイスを受けました。いまは、大好きだったワインもグラス一杯だけ、という過酷な決まりを守っています(笑)。
回復してリハビリを重ねながら、それまで考えもしなかったことをいろいろ考えるようになりました。倒れる前と後では、人生に対する心持ちがずいぶん変わったと思います。
共働学舎は、心身にいろいろな困難を抱えた人たちが集まった場です。その中で僕はいままで、そうした人たちをサポートする側の人間でした。ところが倒れたことで、自分もそちら側の人間になった。当初はあせりや葛藤がずいぶんありましたが、いまは状況を受け入れることができます。そして、いろいろな困難を抱えている先輩たち(笑)といっしょに暮らすことで、自分の視野がずいぶん広がったと思います。
共働学舎新得農場には、いままでまわりからガンバレガンバレと一方的に追い込まれて、疲れ果ててしまった人たちがいます。彼らは僕たちのところにたどり着いて、ここでは無理にがんばらなくても、とりあえず自分は自分でいいんだ、と気づきます。そこから自然に、自分なりに生きていこうという気持ちがわいてきます。現在の僕も、「自分はなんてダメな人間になってしまったのか」、なんて悩まずに、いまできることを積み重ねて、自分なりに生きていこうと思います。家族や仲間たちの支えがあるから、それができます。
フランスで倒れる前、昨年の春、ロボットをテーマにしたある大きなシンポジウムに呼ばれました。農業の分野でもロボットの研究と導入がどんどん進んでいます。十勝の大地を無人のトラクター群が縦横に走るという時代もすぐそこです。でも共働学舎新得農場は、規模や効率を最優先させてロボットを導入する文脈とは真逆の考え方で成り立っています。チーズづくりではミルクを電動ポンプで運ぶこともせず、ヨーロッパの産業革命以前のやり方がベースです。僕がシンポジウムに呼ばれたのは、あえてそのことを語ってほしいというリクエストを受けたからでした。
近い将来人間の食べ物の大部分は、広い意味で機械が作るものになるでしょう。そこに関わってきた人たちの多くは仕事を失うことになる。そして今後、そういう局面は社会のあらゆる分野で起こっていくでしょう。
生産や手間のかかることはロボットやAIがやる。じゃあ人間は何をするのか? 生産に携わらなくなった人間は、どうすれば良いのだろうか。それはつまり、人間は何のために生きるのかという大きな問題にもつながっていく事態です。生きることの意味を、ふつうの人が切実に考えなければならなくなる。このことを突き詰めていくと、生きている人間は世界にほんの少ししかいらなくなるでしょう。「マトリックス」などの映画はいちはやくこうした問題を思考実験のように扱ってきたわけですね。
「人は何のために生きるのか?」
僕たちは新得に来てから40年間、そのことを考え、議論して、実践してきたと言えます。軸にあるのは、「生きることは何かの手段などではないんだ」、という想いです。人は、やりがいのある仕事をするために、あるいは社会の役に立つために生きているのでしょうか? もちろんそれは意味のあることです。でもそれだけだとすると、それができない人間は生きる価値がないことになってしまう。
僕たちはこう考えています。たとえどんな人でも、「生きることそのものが人生の目的なんだ」。そこがすべての前提であり、出発点です。人間にとってはまず何をおいても、「生きること自体に意味や価値がある」。そのことに感謝しよう—。
いやいや、はたしてそうだろうか、と考える方もいるでしょう。このことはいろんなところで議論を深めていく必要があると思います。
帯広での入院生活で、病室の天井や窓からの景色を見て毎日いろんなことを考えていました。あらためて気づいて考えたことがあります。それは、植物はどうしてあんなにたくさん大きさや位置を変えて葉を持っているのだろう、ということ。
どんな葉も、植物が生きる糧となる有機物を合成するために、季節や時間に合わせて太陽光を最大限に捉えようとしています。それらは光のいくつかの波長を吸収しながら、全体で共鳴を起こしているのです。ある時間に光を浴びてほかの葉のグループと同調した葉は、次の瞬間には休み、別の葉のグループに役割を託します。どんな葉にも必ず出番があるのですから、ムダな葉というものはありません。
人間の社会も同じはずです。人々がみんなひとつの方向を向いていて、ちがうところを見るのが許されないなら、その薄っぺらな社会は不意の変化に対応などできないでしょう。それぞれに少しちがうところを見ている人たちのあいだでは、共鳴現象が生まれます。彼らは共鳴する響きごとにグループをつくり、今度はそうしてできたいくつものグループ同士がもっと大きな共鳴を起こす。国境を越えてこうしたことが起こると、世界は全体として、たとえ大きな環境変化に見舞われても調和を保っていられます。だからどんな人にも生きていく意味がある。そのことで人間の社会は成り立っている。
心身に困難を抱える人やLGBTと呼ばれる人々、あるいは少数民族など、私たちの社会にはいろんなマイノリティがいます。地球の上で人間社会がこの先も永く営まれていくためには、そうしたいろんな人々が絶対に必要です。それがあってこそ私たちの大きな社会全体は、強くしなやかな生きもののように、たとえどんな時代にも持続的に活動していくことができるのです(弱い者の存在が社会を強くするという話は以前にもしました)。
生産に寄与しない人、役に立たない人は、この国にいてはいけないのか—。そんなわけはない。僕は強くそう信じています。
「2018.08.06 テキスト編集/谷口雅春(ライター)」