宮嶋 望の発言
「共働学舎新得農場の成り立ち」
アメリカが気づかせてくれた、自分の針路
共働学舎は、僕のおやじ宮嶋眞一郎が1974年に長野に設立しました。父はそれまで東京の自由学園(東久留米市)で教師をしていたのですが、目が不自由になってしまって、50歳で辞めてしまいます。父は30年にわたって、理想的な人間教育をめざした実践の現場にいました。しかし辞めたときの思いには、こんな気持ちがあったといいます。それは、「いちばん教育を必要としている人に自分の手が届かなかった」。
私立学校ですから入学試験があります。学校へ行きたくないとか、身体や精神に不安がある子どもたちは試験に通らない。父は教師生活を重ねる中で、そういう子どもたちにこそ良い教育が必要だと考えるに至ったのです。そして、彼らの将来の伸びしろに希望を託すのではなく、「いま現在持っている力でどう生きられるか」、「どうしたら自力で生きられるか」を問題にすべきではないか、と考えました。まわりと比べると劣っている面が多いかもしれないけれども、自分の力の可能性に気づいたり、いま持っているその力で生きられる場をつくりたいと考えたのです。そこで、ともに汗を流して働く学舎(まなびや)という意味で「共働学舎」をつくりました。
父の実家、僕の祖父は長野の北のほうの白馬岳の麓の出身で、その南小谷村(現・小谷村)の千国というところで「共働学舎」は立ち上がりました。最初に掲げられたのは「自労自活」というモットーです。
そのとき僕はちょうど自由学園を卒業する年。まわりはみんな、長男だから手伝うだろう、父親がそんな正しいことをするのだから、と思っていたようです。でも僕はアメリカに逃げてしまいました。父がしようとしていることは、正しい。それはもちろんわかっている。けれども物心つくころから父とのあいだで緊張感をもって育った僕としては、自分が外の世界でどう生きられるか、どこまで通用するか試したいと思いました。自分の人格というものが人につくられたものなのか、それとも生来の自分自身のものなのか、そんなことも知りたいと思いました。だから父の傘の下からいったんは飛び出そうと、アメリカに行ったのです。
父の計画の中には、心を閉ざした子どもが、もしかしたら動物と接することで心を開くかもしれないという着想がありました。よし、じゃあそれは僕がやろうと思いました。学生時代の夏休みなど、僕は父から逃げるように岩手にあったある農場に行って、牛の世話を手伝っていました。汗を流して働いているとご飯を食べさせてくれて、帰りの汽車賃もくれました。すばらしく自由な時間でした。だから牛のことは少し知っていました。それで、父のいう動物を家畜と解釈して、ゆくゆくはその方面を僕がやる。ただ時間がほしい。お金は要らないから、と、旅立ったのです。ウィスコンシンの農場に働き口を見つけました。農場主が交通費を最初に出してくれるプライベートのプログラムです。500ドルをもらって、それを工夫して364ドルで行って、そして小遣いを貯めながら働きました。
すべていい勉強になりました。牧場は家族経営ですが、約900エーカー(約360町歩)。当時の十勝の20倍ぐらいの大きさです。しかしボスは、うちはアメリカでは小さい。だから付加価値をつけなければやっていけないんだと言いました。牛のブリーディングで、良い牛の遺伝子に付加価値をつけて、うまいビジネスをしていました。しかし360町歩で小さいという発想には驚きました。日本とはとにかく桁が違うな、と実感しました。そこからさらにウィスコンシン大学の畜産学部に入って2年間学び、B.S.(理学士)を取って1978年に帰ってきました。
帰ってくるとき、腹に決めたことがありました。これは今だから大っぴらに言えることなのですが、「絶対にアメリカの真似はしない」ということ。アメリカをお手本として規模拡大を目指す北海道では、特に当時の十勝では絶対に言えないセリフでしたけれど。
そう思うことに至ったきっかけがあります。ウィスコンシン大学はアメリカの酪農分野ではトップの大学とされていますが、農業経済のある教授がいました。学生に人気がなく、僕も嫌いな教授でした。しかし学生による教授の評価制度もありましたから、そういう教授は逆に学生をさかんに持ち上げるものです。ある講義でこんなことを言いました。「君たちの肩にはアメリカの威信がかかっている」。そして、「君たちの生み出す農産物はアメリカの重要なアームズ(兵器)だ」、と。農産物は、国際政治上の重要な戦略物資という意味です。だから大型化、機械による効率化が不可欠で、安価な農産物を大量に生産して輸出を広げ、世界の食糧マーケットをコントロールする。それが君たちのミッションなのだ。まぁそういうものか、と思いましたが、次の瞬間、日本人学生がいると知って彼はこう言ってのけました。「太平洋の端にオイルに浮かんでいる船を見てみろ」。おっ? 日本のことか。極東の工業国、島国日本です。そしてこう来ました。「極東のこの小さな船はいま元気が良い。これが勝手に動いては困る。その行き先を左右するのは、フィーズ(飼料)である」と。一瞬、日本人を家畜扱いするのかと腹が立ちましたが、彼は実際に飼料のことを言ったのでした。日本の家畜を左右する飼料を我々がコントロールすれば良いのだ、というわけです。
70年代後半からあったアメリカのこの戦略はいま、ご承知のように着実に成果をあげています。彼らが一生懸命仕込んでいたことが、40%に満たないといわれる日本の食糧自給率の低さにあらわれている。自給率を大きく引き下げている要因は、フィーズ(飼料)になる輸入穀物にあるからです。8年ほど前に調べてみたことがありましたが、当時2600万トンの穀物が輸入されていました。そのうち1600万トン弱がフィーズでした。いまではそれがもう2000万トンに近づいているといいますが、減反政策で生産がおさえられていた米の量が800万トンですから、いかにたいへんな量であることか。アメリカは国家戦略として、日本の家畜、つまり日本の食を着実にコントロールしてきたわけです。
思い出してみると僕らが小・中学生のころ、給食に米は出ませんでした。僕の学校では2週間に一度くらいカレーライスがでたのですが、そのときは家から米を持っていって、お母さんたちが学校に来てカレーをつくりました。つまり学校の経理伝票にはお米を買ったことが残らないようになっていたのです。この法律がなくなったのは、バブルがはじけた後です。
アメリカのこの戦略が行き着くのは、遺伝子組換えです。ウィスコンシン大学でも当時から研究が進められていました。アメリカ人の教授のもとで、手先が器用で優秀な日本人スタッフたちが活躍して実験を繰り返していたのを覚えています。そのうちのひとりとは友だちになりましたが、彼はいま、まだその研究をしています。ただし目的の向きが逆で、どうやって遺伝子組み換え作物が日本の市場に入り込んでくるのを防ぐか、という研究です。
1978年にアメリカから帰国するときに考えたことにもどります。個人としては、アメリカ人は今も好きです。牧場の家族もすごく良くしてくれたし、まだ仲良くつきあっています。おかげでいまもいろいろな情報を流してくれます。アメリカの現状が聞こえてきています。でも、あくまで規模と効率を求めるアメリカのような量産体制には、日本の針路はありません。
日本へ帰ってきて僕が目をつけたのは、日本の発酵食文化でした。日本の風土には、たくさんの微生物が生きている。湿度が豊かな環境ですから、欧米よりも何十倍、何百倍と微生物の種類と量が多いのです。そんな条件を何百年にもわたって食文化に活かしている日本の風土はものすごく重要だと思います。ですから、僕は自分の進む方向を「世界に通じる高い品質をもつ発酵食品を独自につくっていくこと」に定めました。
「2014.06.16 テキスト編集/谷口雅春(ライター)」