宮嶋 望の発言
「共働学舎新得農場の成り立ち」
共働学舎新得農場の誕生と現在
アメリカのウィスコンシン大学の畜産学部で学んでいた僕は、1978(昭和53)年に帰国しました。ちょうど北海道の新得町から、かつて町営牧場があった30町歩の土地をただで貸すから共働学舎の牧場を作らないかというお誘いがあったのです。こういう土地だが帰ってこないかと、現地を見てきた父から写真が送られて来ました。とても良さそうなところです。よしやるぞ! と思いました。しかし写真では平地に見えましたが、実際に来てみると斜度が20度もある山の土地でした。こんなところでトラクターを走らせるのか、と気が滅入りました。実際いまでも、雨が降る中で下手に運転すると、ずるずる落っこちていくようなところです。牧草上げをするとき、ロールの角度をちょっとまちがって置くと、ごろんごろんと下に落っこちていきます。しかし、傾斜が急で不利なこの条件が、あとあと僕らにすばらしいチャンスをもたらしてくれることになります。
立ち上げのメンバーは、僕の家族と長野の後輩合わせて6人。はじめは牛舎や住宅はおろか、水道も電気もない状態でした。工事現場から使い古しの解体したプレハブなどをもらいながらそれを自分たちの手で組み上げていきました。水道は沢から引きました。
牛は、5頭買って1頭もらって、6頭。農協の正会員となる前は生乳を思うように出荷できず、無駄にしたくない一心でバターやチーズを作りはじめました。
それから36年たった現在の共働学舎のメンバーは、70数名。毎年、1人、2人の赤ん坊が生まれます。30町歩だった土地は96.4町歩と増えて、もうじき100町歩を超えると思います。主にやっているのは酪農とチーズ生産。有機栽培の野菜もずっと作っています。それから、農産物から出てくるいろいろなものを使って工芸品なども作ります。
70人以上いるメンバーの半分ほどは、心身にいろいろな負担を抱えている人たちです。しかし福祉系の補助金は一切入りません。いろいろ違う悩みを抱えている人が来ると、福祉の法律に合わないのです。事業に対して農林省からは助成をいただいていますけれども、福祉系のお金はない。だから自分たちでものづくりをして、それを売って採算をとらなければ生活が成り立ちません。
もちろん最初からそんなことはできないので、当初は長野の父たちが集めた寄付金が配分されていました。しかし寄付金は経済状況や時代の趨勢でだんだん減っていきます。僕らは、寄付金はありがたくもらうけれども生活には使わないと決めました。僕はサバイバルが得意ですから、目先の生活ではなく、生産設備に投資させてもらうことにして、どんどん使ってしまいました。現在ではそうした生産のあがりでなんとか生活が成り立つかな、というところまで来ています。
共働学舎は現在、長野の小谷村と北海道の新得、そして同じく北海道の小平町で活動しています。5年くらい前の共働学舎本部の会議で、僕は、それまで入っていた年間数百万円の寄付金を2年間でゼロにする、と豪語してしまいました。ところがその次の年に口蹄疫が発生して全国的に畜産製品が打撃を受け、売り上げが10数%落ちてしまいます。なんとか必死に格闘しているうちに3.11(2011年)の大震災が起きてしまいます。被災された皆さんの苦悩や心痛はいうまでもありませんが、僕たちにとっては、冷蔵庫を止めてしまう計画停電がいちばん響きました。ちょうど「さくら」チーズの最盛期です。3月11日に千個以上を本州方面に出荷しましたが、翌日に800個以上が返品されてしまった。海を渡れなかったのです。たいへんな事態でしたが、チャリティセールにして近場で売って、新得で作っていた牛肉のレトルトカレーに替えて、これを被災地に送りました。このカレー生産者は新得の肉牛のボスですが、彼も同じ量を送りました。このとき「さくら」や「コバン」などのソフト系のチーズは、冷蔵庫が止まる計画停電のために仕入れを手控えられてしまい、本当に困りました。関西や九州の知り合いを頼ってチャリティ価格で売ってもらいましたが、金額的なダメージは大きかったのです。
そのダメージからようやく抜けだしてきたのが現在ですが、僕たちのチーズの価値は一にも二にも品質(おいしさ)にあります。そのことに評価をいただいていますから、きちんとした品質のチーズを作り続けていけばなんとかなる、という信念をもっています。その気持ちは、1998年に第1回オールジャパンナチュラルチーズコンテストで「ラクレット」が最高賞を受賞したり、ヨーロッパの山のチーズオリンピックで「さくら」が、2003年に銀メダル、2004年には金メダルをいただいたころから強くなりました。
ヨーロッパの山のチーズのオリンピックは、経済的に不利な地域の産業を守り、地域の食文化や生活文化を守るためにはじめられました。AOC(原産地呼称統制)などの地域的な認証制度のくくりとは違い、生産地の地理的条件を規定してカテゴリー別に評価されるコンクールなので、日本からのエントリーも可能です。
山のチーズとは、生産地の標高が700mほどあることや、傾斜が20度以上で放牧を余儀なくされること、海から離れていて海の影響を受けていない植生があることなど、生産に不利な条件のもとで作られるチーズと定義されています。新得牧場の場合標高は240mですが、傾斜が急なこと、放牧をしていること、緯度が高く府県の標高600mと同じような植生が生えていること、海から遠い土地であることでエントリーができるのです。働き手泣かせの傾斜地であることが、ここで幸いしました。
僕たちは、商品の価値をあくまで品質にしぼって生産の仕組みを作ってきました。そして社会的には弱い人たち、ゆっくりな人たちといっしょに作業をするために、機械のシステムをできるだけはずしていきました。彼らは、道具(トラクターなどの農業機械、コンピュータなど)を使うのがうまくない。でも手作業は、身体と時間をいっぱい使ってじっくりできます。そうして作ったものが、ヨーロッパで金メダルをとった。世界のトップに立ったということは、どれほど僕たちを勇気づける出来事だったでしょう。よし、これで仲間と暮らしていける。入植してから四半世紀もかかりましたが、僕はそう思いました。
やがて僕たちの取り組みのことを話してくれと、あちこちで講演に呼んでいただく機会も増えていきました。僕の講演ではあえて「本物のチーズ」という、ちょっとあやしい言葉を使うことがあります。最近では聞かなくなりましたが、この言葉が出てきたのは20年前くらいで、一時盛んに使われましたね。砂漠の民に、あなたは本物の食べ物がほしいですかと聞いたら、何それ? と問い返されるでしょう。まず食べものがあることが重要なわけですから。アメリカ人に聞くとやはり、何それ? うまいものがたくさん食えればいいだろ、となると思います。少し不思議な気もしますが日本の文化には、食べ物には本物とにせものがある、という考えが定着しているのではないでしょうか。だから本物とよばれるものには訴求力がある。
では本物の食べものとは何でしょう。
日本の食文化は、豊かな森や大地、そして海でできる食材をベースに作られてきました。古代では食べものとは、人が生産するというよりも自然からそのままいただくものが多かったはずです。そこから長い時間をかけて、恵まれた食文化を自然にゆだねながら作り上げてきたのが日本人だと思います。その記憶が遺伝子の中に入っているとすると、自然からいただくものがいちばんの本物の味、ということになる。共働学舎が作るものも、そこに結びつきます。
「2014.06.16 テキスト編集/谷口雅春(ライター)」